愛知県で開催された国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が中止になった件について考えてみました。
すでに様々な媒体で取り上げられているので、経緯を簡単に説明すると、同展示会で戦時中の従軍慰安婦を象徴するような「平和の少女像」を展示したり、昭和天皇の写真を燃やすような映像が展示されていたため、実行委員の事務局に抗議の電話やメールが殺到。
中には、「ガソリンやサリンを撒く」などの脅迫めいた内容のものもあった為、展示会を訪れる市民の安全を考慮し、展示会自体が中止となった。
「あいちトリエンナーレ」には、公金8億円が投入されている為、「税金を使って地方自治体が開催する内容にそぐわない」や、「中止することが、表現の自由に抵触し、検閲にあたる」
とする意見が出ています。
問題を突き詰めると、「平和の少女像」や「昭和天皇の写真が燃えている映像」の展示が、
「自由の濫用」に当たり、
「公共の福祉に反しているか」
それとも、
「表現の自由はいかなる場合でも守られねばならないのか」
という点に集約されると思います。
これらの点について考察していきます。
日本国憲法第21条には、
「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない」
とあります。
この21条だけを読むと、「公的機関が展示物を事前にチェックし、その内容の是非を判断し、展示していいかどうかを決めてはならない」と読み取れます。
ところが憲法12条と13条には以下のような文言が書いてあります。
日本国憲法12条
「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」
日本国憲法第13条
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」
つまり21条で「表現の自由」は保障しますと言いながら、12条と13条で「濫用してはならず」「公共の福祉に反してはならない」と言っているわけです。
ということは、「公共の福祉に反する表現の自由」と「公共の福祉を増進する表現の自由」があるということになります。
では、従軍慰安婦を想起させる「平和の少女像」や「昭和天皇の写真が燃えている映像」を展示することは公共の福祉に反していたのでしょうか?
それとも反対に、展示することが公共の福祉を増進することになったのでしょうか?
これについては、そもそも何ゆえに表現の自由は国家権力から保障されなければならないのかを考えてみる必要があります。
法学博士である芦部信喜東京大学名誉教授は、「憲法学」の中で『自由(人権)は何よりも「人間の尊厳」の原理なしには認められない』と述べています。
個人の尊厳とは「すべての個人が互いを人間として尊重する法原理」ですが、何を根拠に人間はお互い同士を尊重しなければならないのでしょうか?
私自身は、日本国憲法はアメリカ人が作ったものであるその経緯を踏まえれば、人間の尊厳の根拠をアメリカ独立宣言に求めるのが自然だと考えます。
アメリカ独立宣言(一部抜粋)
「われわれは、以下の事実を自明のことと信じる。すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等で あり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているという こと。」
つまり、『人間は創造主によって創られ「自由」を与えられた』ということです。
さらにアメリカ独立宣言の根拠を遡れば聖書にまで行き着くことになります。
旧約聖書・創世記より
つまり、「人間の尊厳の根拠とは何か?」という問いに対して答えるとするなら、旧約聖書の創世記に根拠を持ち、それをわかりやすく言葉にすると、
「神に創造された神の子としての本質が人間の尊厳の根拠である」ということになります。
では、「神より人間に与えられた自由」は何ゆえに国家権力から守られねばならないのでしょうか?
この問いに答えるには、また時間を進めて現代にまで戻らないといけないので、出典等は明記せずざっくりとまとめることにします。
人間は神により与えられた自由を使って、根源的欲求である「幸福」を追求し始めました。
ところが、多様な個性を持った人間が神により創造された結果、一人ひとりの幸福を感じる内容が違うこともあるため、それぞれの自由を調整する必要が生じた。
その問題を解決する為に、創造主は人格神を地上に送り込み、宗教という形で「愛、反省、戒律」などの教えを説き、全体が調和して生きられるようにしました。
ところが、偉大な宗教家は必ずしも常に地上にいるとは限らない為、人間同士が話し合いによって、最適な判断をしないといけない時期も訪れることとなる。
多様な意見は多様なグループを形成することになり、どの意見を採用することが全体が良くなっていくのか、判断をしないといけなくなった。
だがここで幸いにも、人間に平等に与えられた自由を使って、「努力した人間」とそうでない人間に分かれてきた結果、「大勢の人間を指導できる優秀な人間」が出現することとなった。
その為、判断が分かれる難しい問題についてはその「優秀な人」の判断に委ねようということになり、指導者として民衆から選ばれることになった。
ところがここでもさらに新しい問題が発生することとなる。
優秀な人間が大勢の人々を指導するのは良いが、優秀な人間はともすれば自らの能力を過信し、民衆の意見を謙虚に聞かない場面が出てきた。
そしてそうなると、優秀な指導者ほど「民衆の意見はダメで自分の言う通りにやれば全て上手くいく」として、民衆の自由を制限し、一元管理をし始めた。
民衆は、「神により与えられた自由を制限されてはたまらない」とし、定期的に指導者を選挙により入れ替えるとともに、「人々を治める指導者及び公務員は、民衆の自由を権利として保障し、これを侵してはならない」という憲法を制定することとなった。
同時に、同じ国に住む人同士、お互いに気持ち良く生活できるように「公共の福祉に反する」ことのないよう「自由を濫用してはならない」ということも定められた。
以上をまとめると、
『「公共の福祉に反しない」ようにお互いに気をつけつつ、「(神より与えられた)表現の自由」は行使できる。それに対してその「表現の自由」を国家は制限してはならないし、「権利」として保障しないといけない。
ただし、その「表現の自由」が「(多勢の神の子を傷つけるような事態が発生し)公共の福祉に反する」という判断がなされたなら、国家はその自由を制限することができる』
このような説明で理解できると思います。
以上を踏まえた上で、「表現の不自由展・その後」についてさらに考察していきたいと思います。
1.「表現の不自由展」は国家から表現の自由を
侵害、もしくは制限されたのか
2.「表現の不自由展」は自由を濫用したのか
3.「表現の不自由展」は公共の福祉に反したの
か
続きは②の方で書こうと思います。