「芸術の中に神の姿を見いだす〜文学編」
今回は、2017年にノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの「日の名残り」を紹介します。
カズオ・イシグロは、1954年長崎県長崎市の生まれ。小学生の時に父親の仕事の関係で、一家でイギリスに移住します。
大学卒業後には、一時期ミュージシャンを目指していた時期もありましたが、社会福祉事業に従事する傍ら作家活動を始めました。
個人的には、カズオ・イシグロについては、ほとんど何も知りませんでしたが、ノーベル文学賞とアマゾンの評価☆4.5に釣られて、読み始めました。
とはいえ、購入後、すぐに読み始めた訳ではありません。なぜなら…
以下、文庫本のあらすじです
【品格ある執事の道を追求し続けてきたスティーブンスは、短い旅に出た。美しい田園風景の道すがら様々な思い出がよぎる。
長年仕えたダーリントン卿への敬慕、執事の鑑だった亡父、女中頭への淡い想い、二つの大戦の間に邸内で催された重要な外交会議の数々—過ぎ去りし思い出は、輝きを増して胸のなかで生き続ける。失われつつある伝統的な英国を描いて世界中で大きな感動を呼んだ英国最高の文学賞、ブッカー賞受賞作】
…あらすじを読んでみても、どの辺が面白そうなのか?という疑念が湧き上がり、なかなか手が出なかったのです。
ただ分量的には350ページほどであり、それほど長くないので、地雷覚悟で読み始めました。
すると、あらすじはまったくもって退屈そうなのに、読み始めるとその不思議な魅力にどんどん引き込まれていきました。
ストーリーは、執事であるスティーブンスの一人称形式で、1人語りで進んでいきます。
スティーブンスは主人であるファラディ氏から、たまには旅行にでも行ってきたらどうかと勧められます。しかも旅費やクルマはファラディ氏が持つというのです。
スティーブンスは、ファラディ氏の好意に感謝しつつ、クルマを運転して旅行に出ます。そしてその行先の途中に、以前の主人であるダーリントン卿に仕えていた時に、女中頭だったミス・ケントンの家に寄ることにしました。
ミス・ケントンは結婚して、別の土地に住んでいるものの、久しぶりに届いた手紙には、結婚生活があまり幸福なものではなく、出来れば以前の懐かしい邸に戻り、女中をしたいということが匂わせてあったのでした。
スティーブンスは、人数が少なくなり、仕事が行き届かなくなった邸に、ベテランのミス・ケントンが復帰してくれたら、どれだけ助かるだろうという計算もあり、旅行のついでに寄ってみようと計画を立てたのです。
ストーリーは、スティーブンスがクルマで旅行しつつ、前主人のダーリントン卿の頃の仕事内容や、「執事の品格とは何か」をテーマにして1人語りをしていきます。
執事の品格といっても、日本人にはなんのことやらさっぱりわからないと思います。(余談ですがあの刑事コロンボもイギリスに出張に行った時に、本物の執事を見て感激し、カミさんに自慢すると言ってるくらいです)
ですが、「日の名残り」の中には、思わず「これが執事の品格かもしれない」と思わせるエピソードが語られるのです。
ネタバレしない程度に紹介すると、スティーブンスの父親も執事であり、かなり立派な仕事ぶりだったようです。
ある日、若かりし日の父親が主人の友人3人をクルマで送迎する運転手を命じられます。
そのうちの2人はお酒をたくさん飲んだこともあり、まるで悪ふざけをする高校生みたいな振る舞いに及びます。
そして、色々な人の悪口なども言い始めて、それがクルマの運転をしている、若かりし日の父親の方にも矛先が向きますが、決して怒らずに指示された通りに、クルマの運転を続けます。
ところが、その悪口の矛先がとうとう自分の主人にも向かいます。酔ってないもう1人の友人が、酒に酔って悪口を言いふらす2人をたしなめますが、やめません。
そして、とうとう自分の主人の悪口を言っている後部座席の2人に対してある行動を取るのでした…。
ここから先はネタバレになるので明かしませんが、なかなか唸らされる展開でした。
執事の品格が垣間見えたような気がしました。
その後も、邸で行われた世界情勢を左右するような外交会議でのエピソードを交えながらスティーブンスにとっての「執事の品格論」」が語られていきます。
結局のところ執事の品格とは、「職業人としての誇り」「職業倫理」「職業人としての分を知る」ということなのかなと思わせられました。
そして、もう一つのストーリーの骨子として、女中頭のミス・ケントンとの出会いと別れが語られます。
女中頭といっても50代とかではなく、割と若い30代くらいの設定だったような気がします。(細かいところは忘れてしまいました)
邸での仕事は、料理、洗濯、掃除などの家事全般と、お客様が来たときのお世話や、会議などの運営に伴う様々な準備など、結構やることが多く、実務能力が試されるような内容です。
そこでの執事と女中頭の関係は、常に密に連絡をして邸の中がスムーズに回るようにしなければなりません。
そして、勢い2人の関係は、仕事での関係を超えていきそうな雰囲気になります。
作中、主人公のスティーブンスは仕事に没頭している為に、そのような気配を感じさせません。
ですが、ミス・ケントンの方がどうも、スティーブンスへの好意を匂わせるような行動を時々してくるのです。
この辺の距離の詰めかたが、ちょっと読んでいてドキドキしてくるというか…すでに縮まっている心の距離を、物理的にも近づけてくる感覚を読者に起こさせるのは、作者の力量の賜物でしょう。
その後、ミス・ケントンは他の人と結婚して、邸での仕事もやめてしまいます。実際ミス・ケントンはスティーブンスに好意を持っていたのかどうか、それは読んでみて確認してほしいのですが、一般的には同じ職場での恋愛は難しいというのが正直なところです。
余談ですが、以前自分が勤めていた職場でのことですが、若い同僚同士が1〜2年付き合った挙句別れてしまい、男性の方が直後に同じ職場の別の女性と付き合い始めてしまい、いたたまれなくなった元の女性は他県に引っ越してしまったのです。
かように職場恋愛は難しくて、ある意味一生を左右してしまうこともあります。
ベターな方法は誰か第三者を仲介して、相手の気持ちをそれとなく確認するのが良いと思います。
話しを元に戻します。主人公は、旅の最後にミス・ケントンと再会します。
スティーブンスの心境的には「ミス・ケントンが邸に戻ってくれば仕事が円滑に回るかも」という期待と「ひょっとしたら彼女は自分に好意を抱いていたのでは?」という二つの期待を持っています。
これ以上は明かしませんが、正直、最後の場面は自分の体験とも相まって、ちょっと涙なくしては読めませんでした…。
「日の名残り」の文学としての魅力は、ロードムービー的な手法を取りつつ、過去から未来へと繋がっていく時間の流れの中で、過ぎ去りつつあるイギリスの伝統と主人公の感情をうまく織り交ぜた点にあると思います。
不思議な魅力を放つ名作だと思います。