12月9日、Google傘下のYouTubeが米大統領選の誤情報を削除すると発表しました。
11月の米大統領選挙以来、YouTube上では保守派の言論人達が、バイデン氏の投票に不正があったとして連日のように情報を発信しています。
その中には、監視カメラの映像にバイデン氏の票を増やす行為を捉えているものもあり、かなり信憑性の高い不正の証拠も出始めています。
さらに、不正という観点ではなく、そもそも選挙における郵便投票の基準を緩めたこと自体が、憲法に違反するとしてテキサス州を筆頭に複数の州がジョージア州など4州を提訴しました。
選挙直後から、バイデン側に不正の疑いがあったとして、保守派の人たちはツイッターやYouTubeで情報を集めては、拡散し続けています。
特にYouTubeにおいては、英語ができる保守派の言論人が発信する情報は貴重だと思われます。
ところが今月9日、Google傘下のYouTubeは各州が大統領選の結果を認定する期限である8日を過ぎ、ジョー・バイデン氏の当選が確認できたとし、選挙結果について人々の誤解を招くようなコンテンツの削除を開始したと発表しました。(ITmediaNEWSの記事より)
これに関してネット上では、「言論統制」「検閲」「Googleは中共に魂を売った」など激しい反発を招いているようです。
この反発は当然と言えば当然です。何しろアメリカと言わず日本でも大マスメディアは大統領選での様々な不正疑惑を取り上げず、バイデン氏が大統領に当確したという既成事実化に必死だからです。
そのような中、YouTubeで大統領選の不正疑惑の続報を様々な角度から発信してくれる言論人達の動画は、保守派の人たちの心の拠り所だったからです。
そして彼らは「何がなんでもトランプ大統領を無理矢理当選させよう」とごり押ししたいのではなく、あくまで「民主主義に不正はあってはならず、投票は正しい手続きに則って行われるべき」という信念に基づいて情報収集、発信をしているのです。
今後、本当にGoogleは、YouTube上での大統領選での不正疑惑の動画を片っ端から削除するのでしょうか?
言論の自由は権利として守られているものの、その拡散機能自体はある種のメディアを通してしか発信できない為、一昔前なら新聞、テレビ、週刊誌などで意見を表明する資格がなければ、街中でビラを配るか、デモをするか、知り合いに自分の意見を聞いてもらうか、ぐらいしかありませんでした。
そこへインターネットが登場し、誰もが自分の意見を自由に発信できるようになり、ようやく言論の自由市場が整ったのです。
ところが今回のGoogleのYouTube動画削除のニュースは、言論の自由市場の脆弱性を露呈させました。
それはある意味予想されていましたが、やはり旧メディアの新聞やテレビと同じく、ネットのテック企業も経営しているのが人間である限り、経営陣の意図的な方針は入らざるを得ないでしょう。
幸い、はてなブログではまだ言論統制されていないようなので、Googleの今回の姿勢について私の考えを述べてみたいと思います。
そもそも言論の自由はなぜ権利として与えられているのでしょうか?
一番根本的な理由は、神が人間を創造した時に、「複数の、異なる多様な個性を持った人間」をたくさん創造したからです。
そして個性が違うのであれば、当然一人ひとり考えや意見も違います。そして人間が集まって社会を構成する際にどの意見がベストで正しい意見かはすぐにはわからない為に、「言論の自由」を駆使し「議論をたたかわせる」などの過程を経て、最も優れている意見を採用する必要があったのです。
そもそも一人ひとり違う個性であるにも関わらず、多様な意見は出すなというのが無理な話しなのです。
神様が多様な個性を創ったことが悪い訳ではなく、そこには宗教的な深い意味があるのです。(これに関しては今回の記事ではこれ以上述べませんが)
で、あるならば、「(神が創ったであろう)多様な個性を尊重し、その意見、言論も同じく尊重しよう」そして「その言論の自由は国家から制限されないように」「権利として保障しよう」(ただし公共の福祉に反しない限りという条件が伴う)という考えが言論の自由の基本的な考え方です。
Googleが削除しようとしている動画が、誰が見てもヘンテコなフェイク情報であり、その情報に接した人達が、みんなおかしくなって公共の福祉を害し始めているというのならば、削除も止むを得ないかもしれません。
ですが、不正があったとして、それについて証言しようとしている人達がすでに数百人はおり、さらに郵便投票による選挙の方法自体にも問題があったのではないかと、それを裁判で追及しようとしている状況であるにも関わらずGoogleの独断で「誤情報だから削除」しようとしているのです。
ここで19世紀のイギリスの政治哲学者であるジョン・スチュアート・ミルの考えを紹介したいと思います。
ミルは「自由論」の著者として有名です。
ミルは自由の大切さを訴えており、当然「言論の自由」についても述べています。
ミルがなぜ言論の自由は制限されてはならないかというと、「意見が多様であるならば、正しさというものは、お互い自由に意見を出し合い、充分に議論をすることによってしか生まれない」と述べています。
そしてその議論の際には、「自分に不利になる情報」や「相手に有利になる情報」も双方隠すことなくつまびらかにしていくことが、議論における道徳であると述べています。
今Googleが削除しようとしている動画は、「バイデン氏が不利になり」「トランプ氏が有利になる情報」です。
ミルによれば、このような行為は、議論における道徳的行為ではありません。保守派の意見に反論があるのなら、バイデン氏を応援する側も反論動画をどんどんYouTubeに投稿すればいいだけです。
言論と表現のプラットフォームを所有するGoogleが、片方のみの動画だけ削除しようとすることが道徳的であるわけはありません。
つまりGoogleは不道徳だということです。
ではなぜGoogleは不道徳な削除行為をあえてしようとするのでしょうか。
一部では「中共に魂を売った」と言われていますが、おおむねその通りだと思います。
保守派の人たちは、「Googleは人間にとって大事なものを売ってしまった」と嘆いて非難しています。
ですが自分の考えは少し違います。
もう一度「自由」ということを整理したいと思います。
もし自由というものが、神から人間に与えられたとするなら、最も大事な自由は「信教の自由」です。
次に「思想、信条の自由(政治信条など)」。
それらの自由を実現するための「言論の自由」という順番になると思います。
そして「言論の自由」を制限することは必ず「信教の自由、思想、信条の自由の制限」に繋がります。
ところが現代のアメリカや日本などで、特定の信仰を持ち、特定の思想、信条を持っている人はどちらかというと少数派です。
大部分の多数派の人達は、特定の信仰も持たず、特定の政治思想も持っていません。宗教的には無神論者が増え、政治的には選挙に行かず、行ったとしても雰囲気で投票している人が大多数です。
それら大多数の人たちにとっては、制限されて困るような思想信条を持っていないがゆえにそれらが統制され、制限されても痛くも痒くもないのです。
そしてそれはGoogleを運営している人間にも当てはまると推定します。
ノンポリシーゆえに、自分達の利益が最大化するのなら、平気で一部の言論を削除しようとするのです。つまりGoogleは「人間にとって大事なものを中共に売った」ことにはならず、自分達にとって利得、利益のみを得る行為に走ったということです。(あえて言えば拝金主義というポリシーはあるかもしれないが)
また、宗教も政治も自分には関係ないという人達が見落としていることを述べたいと思います。
広い意味で思想信条の元になっているものは、「知識や情報」なのです。
ゆえに言論統制は、言論だけを制限するのにとどまらず、必ず思想信条の自由を制限し、それは必ずや「情報取得の自由の制限」に及ぶのです。
今回のGoogleによるYouTubeの動画削除のニュースがはからずもそれを証明しています。
11月のアメリカの大統領選をきっかけに、世界は「自由と民主主義を守る戦い」に今まさに突入しているのです。
そのことに気づいてくれる人が一人でも増えてくれることを願ってやみません。
追記:このような記事を書いてGoogleアドセンスの審査が通るか、それもいつか報告したいと思います。