今回の記事では、埼玉県芝園団地に、実際に住んでいる大島隆氏の著書「芝園団地に住んでいます」が非常に考えさせられる内容だった為、その概要を紹介しつつ、問題点を挙げて筆者なりに論評を加えていきたい。
以下、書籍の概要。
大島隆氏は、朝日新聞の記者であり、「外国人との共生社会について読者と考える」という企画をきっかけに、2017年から埼玉県川口市の芝園団地に住むことになる。
2017年時点のデータでは、芝園団地住民の人数は4939人。内、日本人2448人。外国人2491人(大半が中国人だが、ベトナム人やバングラデシュ人も増えている)
中国人は30代くらいがメインの層で、「技術・人文知識・国際業務ビザ」、いわゆる「技人国ビザ」を取得し、日本のIT企業に勤めている人が多い。
大島氏は団地の自治会の役員を務めながら、様々な体験を通して、先に住んでいる日本人の住民と、中国人住民との共生について考察していく。
大島氏は引越し当初は、巷で噂されていた中国人のゴミ捨ての問題とかがあるのではないかと思っていたようだが、次第に改善されていったことを知る。
そして自治会役員の中には、団地内でいかに日本人と中国人が上手くやっていくかを、地元の大学生が立ち上げた「かけはしプロジェクト」と協力して、様々に試行錯誤して取り組んでいたのだった。
いくつか例を挙げると…
「中国語教室」「書道教室」「太極拳」「防災訓練」など、日本人と中国人がコミュニケーションを取りやすい企画を定期的に開催し、少しずつではあるが成果が出てきている。
また、団地内ではバドミントン、サッカー、テニスなどのスポーツクラブがあり、一部のクラブでは中国人が参加していることもあり、そうしたクラブでは日本人と中国人が自然に交流できている。
芝園団地の上記のような取り組みが評価されて、2018年には埼玉県の「埼玉グローバル賞」、国際交流基金の「地球市民賞」を受賞した。
交流の課題としては、参加メンバーが固定化されてきており、新規に参加するメンバーをいかに増やしていくかを自治会と大学生ボランティアは考えている。
団地に中国人が住み始めてから、日本人の住民との交流が少しずつ進んできたものの、住民の中には冷めた態度で不満を持っている人たちもおり、「共生に取り組む住民」と「それ以外の住民」という図式になっている面も見られる。
大島氏は「中国人との交流に関心のない住民は、『そもそも交流する為に団地に住んでいるわけではない』という思いがあり、そういう感情があっても仕方ないかもしれない」と考えている。
団地内に少しずつ増えてきた中国人、ベトナム人、バングラデシュ人は、2017年時点で日本人の数を上回り、同時に日本人住民の中にはモヤモヤとした感情が生まれてくるようになる。
例えば毎年夏に開催される夏祭り。お祭りには中国人も家族連れで来るものの、ヤグラを組むことをはじめ、お祭りの準備や後片付けは日本人が行っている。
特にヤグラは重量があり、高齢化している自治会の日本人には負担が重い。自治会に参加している中国人は少数であり、実質的に日本人がお祭りの準備をしているが、お祭りを楽しむだけの中国人に対して、複雑な感情を持つようになる。
そのような状況の中、大島氏は個人的に親しくなった二人の中国人に声をかけて、お祭りの準備に誘うことに成功する。
だが自治会役員の中では、「今後はお祭りを止めるか、」「縮小して継続するか」「中国人住民にも準備の段階から積極的に参加してもらうか」様々な意見が出る中、自治会の人たちの心は揺れるのだった。
以上が「芝園団地に住んでいます」の概要だが、筆者自身この本を読む前は、「芝園団地は中国人が増えた事で荒れている」というネット上で噂されているステレオタイプのイメージを芝園団地に対して抱いていた。だが本を読み進めていくうちにそのような先入観は次第に崩れていった。
例えば団地の自治会の人達は、日本人住民と中国人住民の分断は好ましくないとして、それぞれが交流できるような場を作ろうと苦労されているし、大学生ボランティア「かけはしプロジェクト」も純粋な思いで活動しているのも文面から伝わってきた。
また著者である大島氏の考察や行動も、出来るだけフェアな視点を持ちながら、芝園団地での生活や自治会活動を通して、「共生社会のあり方」を模索している姿勢も団地に住む一住民としての立場としてなら評価されてしかるべきかもしれない。
だがその上で、この本の中で描かれている「日本人住民のモヤモヤ感」や大島氏の考察の問題点を取り上げてみたい。
例えば団地内での「多文化共生の難しさ」を象徴するような出来事として、「夜、中国人が広場で大声で話す事」と「夏祭り」の二つが挙げられる。
「夜、中国人が広場で大声で話すことがあり、日本人住民が迷惑に思っている」ことについては…中国人は割と夜間(夜11時くらいまで)公共の場で大声でおしゃべりをする文化があるようなのだ。だが日本人は周りに迷惑がかかると考える為、そのようなことはしない。
また、夏祭りの際に、準備と後片付けは日本人のみが行い、中国人は楽しむだけという問題について…自治会役員のもやもや感の正体を「中国人住民がお祭りをタダ乗りしているように感じるから」と大島氏は分析している。
この二つの問題について、著者の大島氏が考察できていないのではないかと推測される点を、僭越ではあるが筆者が代わりに補完、もしくは指摘したいと思う。
まずは「夜間、広場で大声でおしゃべりする」についてだが、もしこの件に「多文化共生」を当てはめなければならないとしたら、「夜に公共の場で大声で話す文化」と「夜は周りの迷惑にならないように静かに過ごす文化」の二つは両立するのだろうか?
あくまで筆者の推測だが、日本人住民の中には、「文化の質」という観点でこの問題を捉えている人達もいると思う。
日本人住民の中には、中国人が身につけている文化(例えば夜間、公共の場所で大きな声で話す等)が、日本よりも低い文化であると考えており、そういう中国人の文化は尊重しがたいという感情もあるのではないか。
だが人によっては、それぞれの国の文化に高い、低いはないという意見もあるかもしれない。なのでここで文化の定義を示しておく。
「文化」とは『宗教・哲学・芸術・科学などの精神的活動、及びその所産としての人間の生活様式の全体』と定義される。
「各国それぞれの文化を尊重し、共生していきましょう」というのが多文化共生の主旨だと思われるが、文化を培ってきた背景に「宗教・哲学・芸術・科学」があるのであれば、当然にその文化には高下の差はあると思われる。
科学であれば中身の高下は目に見えてわかりやすいが、実は宗教や哲学にもレベルの高下はあるのである。
レベルの高い宗教や哲学とは何か、ということは今回は述べるつもりはないが、結論的にはそれぞれの国が長年培ってきた文化にも高下はあり、芝園団地の日本人住民が「夜は周りの近所に迷惑がかからないように、静かに過ごす文化」の方が道徳的に見ても高い文化だと感じ、中国人の低い(と思われる)文化は受け入れがたいと思っていることは容易に想像がつくのである。
さらにそこに付け加えるべき日本人住民のもやもや感として「多数派と少数派の力関係」がある。
現在は外国人住民は日本人住民を少し上回る人数だが、さらに時が経って日本人と中国人の割合が1対9くらいになった場合、「多数決により、公共の場で夜間大きな声で話しても良い」が主流になってしまう懸念があるのである。つまり必然的に日本人が尊ぶ文化は駆逐されずにはおかないと思われるのだ。
また、夏祭りにおける日本人住民のもやもや感については、「中国人のタダ乗り」も原因だとは思うが、それ以外にも原因はあると思う。
例えば神社の祭りの起源は、天照大神の有名な「天の岩戸隠れ」のエピソードで、日本最古の歴史書、古事記(712年)に記されている。
以来、神社や寺院を舞台に行事・儀礼としての祭りが始まった。「祭り」の語源は「まつらふ」で、心を尽くした供え物で神様に感謝をささげることを意味する。
平安時代には神が神社から町に降りられる神輿が登場。江戸時代には山車や花火などの娯楽も加わり、主役は神仏から庶民へと変わっていった。
現在では祭りは、農業や漁業の豊作、家族の健康や幸福を祈願する地域イベントとして定着している。(まっぷるトラベルガイドより参照)
つまり日本のお祭りには「日本国を創ってきた日本の神々への感謝」が背景にある。もちろん現代の全ての日本人がお祭りに参加する際に、いちいちそのような感情を抱いているとは思えない。だが日本人であればお祭りの古い起源は知らなくても、潜在意識では「日本の神様への感謝」のような部分を密かに感じているのではないだろうか。
そこで芝園団地のお祭り継続問題である。日本人が過半数を割ってしまった団地において、「お祭りを継続していく為に中国人に準備の段階から手伝ってもらう」という案に自治会役員は躊躇した。
その理由は書籍には述べられていないが、推測するに「現在、中国人と日本人の割合はほぼ半々である。だが中国人は年々増えている。そのような状態で中国人にもお祭りの準備に参加してもらう。お祭りを楽しむ人の半分は中国人である。年を重ねるごとにお祭りを手伝う中国人の割合が増え、お祭りを楽しむ人の割合も中国人が多くなってくる。その割合が7割、8割、9割となった」場合…
もし、団地内の住民の80〜90%が中国人になった場合、「日本の神様への感謝を表すお祭り」を中国人が喜んで開催するものだろうか?
おそらく中国人住民の人数がある一定のラインを超えた時に、お祭りは「中国流」に変更されるのではないだろうか?
中国人が「日本のお祭り」を主催し、楽しむ人も大半が中国人になった場合、客観的に見ても奇妙な感じがすると思う。
そして自治会の役員の人達も、いずれこのような流れは避けられないと見通して、「いっそのこと今後お祭りは一切やらない」と決めた方がまだマシだと感じているのではないだろうか。
中編に続く。

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