『飲食店が新型コロナウイルスの感染対策を適切に講じているかを、大手グルメサイトを通じて利用者から情報収集するシステムを導入する』
『酒類を提供する飲食店が休業要請に応じない場合、その店舗情報を金融機関に提供する。 店舗の情報を関係省庁、金融機関とも共有し、金融機関からも応じてもらえるように働き掛けを行ってもらう』
上記二つの方針は、西村経済再生大臣から出された方針です。(現在は各方面から批判が噴出し、二つとも撤回しています)
一政治家がこのような発言を平気でするようになったのを見るにつけ、ここ数年の日本は筆者の目から見ると、着実に全体主義に向かっているように見えます。
全体主義の特徴は後述しますが、来るべき日本の全体主義化に備える為に最適な映画、もしくは本などを少しずつ紹介していきたいと思います。
第一回目として、2006年に公開されたドイツ映画「善き人のためのソナタ」を紹介します。
*ややネタバレを含みます!
ちなみにこの映画は第79回アカデミー賞外国語映画賞を受賞しています。
ストーリー
【1984年の東ベルリン。国家保安省(シュタージ)の局員ヴィースラー大尉は国家に忠誠を誓っていた。ある日彼は、反体制の疑いのある劇作家ドライマンとその同棲相手の舞台女優クリスタを監視するよう命じられる。さっそくドライマンのアパートには盗聴器が仕掛けられ、ヴィースラーは徹底した監視を開始する。しかし、聴こえてくる彼らの世界にヴィースラーは次第に共鳴していく。そして、ドライマンが弾いたピアノソナタを耳にした時、ヴィースラーの心は激しく揺さぶられる。】(Wikipediaより)
物語の舞台は、1984年の東ドイツです。当時の東ドイツは社会主義体制です。そして社会主義体制ならではの秘密警察組織があり、シュタージ(国家保安省)と呼ばれています。
主人公のヴィースラーはシュタージ所属の大尉なのですが、ある日劇作家のドライマンが反国家的な思想を持っているのではないかと疑いを持ち、ドライマンの住むアパートに盗聴器を仕掛けます。
しかもアパート内に一箇所だけとかではなく、何箇所も取り付けた上に24時間体制で盗聴し続けます。
映画内では、主人公ともう1人が2交代制で盗聴し、ドライマンと女優クリスタの生活ぶりなどをタイプライターで記録に取るようなこともしています。
まずこの映画が素晴らしくなった要因としては、シュタージの大尉役ヴィースラーを演じたウルリッヒ・ミューエの演技力があげられるでしょう。
映画の出だしはいかにも秘密警察の人間らしく、ガラス玉のような感情がこもっていない目つきをしています。
見るからに冷酷無比というタイプですが、2時間の映画の中で少しずつ、少しずつ人間味を持つようになります。それに比例した目つき、表情の変化を表す演技力が素晴らしいです。
髪型、目つきなどの外見がいかにも「秘密警察」という職業がピッタリのヴィースラーですが、ある日のことヘッドホンで盗聴しているとドライマンがピアノでソナタを弾きます。
その演奏と曲にヴィースラー大尉は感動してしまうのです。
それ以降、ヴィースラーの秘密警察的な感情が変化してしまい、盗聴にも身が入らなくなり、かつドライマンとその彼女の2人に感情移入し始めてしまうのです。
そしてついにドライマンにとって不利になる行動も、目こぼしをするようになるのでした。
一方でこの映画に監視社会独特の緊張感を持たせているのが、大尉の学生時代からの友人であるグルビッツ部長の存在です。
大尉よりはやや出世しており、盗聴もその部長の指示によって始めていたのです。
グルビッツ部長は、学生時代からヴィースラーを知っていることもあり、ヴィースラーが盗聴を手加減しているのではと疑います。
かたやヴィースラーも自分の心の変化を部長に見抜かれないように注意するのですが、その辺の2人のやり取りは見応えがあります。
そんな中、ドライマンが書いた東ドイツの自殺者数増加の記事が雑誌に掲載されます(東ドイツでは御法度な内容)。部長は手に入れた原稿から使用されたタイプライターを割り出しますが、東ドイツでは販売していない物でした。
ただ、様々な状況からやはり記事を書いたのは劇作家のドライマンに違いないと推測した部長は、ドライマンの彼女を捕まえてタイプライターのありかを吐かせようとします。
ヴィースラー大尉は盗聴によってある程度タイプライターの隠し場所を把握しており、加えてドライマンとそのの彼女に同情的になっています。
そんな大尉の心境の変化を知ってか知らずか、部長は女優に対しての尋問役に大尉を指名します。
果たして、大尉はどう尋問するのか?物語は佳境を迎えるのでした。
最終的なネタバレはしませんが、大尉の尋問後のストーリーの運びは素晴らしいです。部長と大尉は劇作家のアパートへタイプライターの隠し場所を捜索しに向かいます。
劇作家と女優、大尉と部長の微妙な人間関係。大尉を演じた俳優の驚異的な演技力も相まって、見応えのあるクライマックスを演出します。
そして数年後、ベルリンの壁は崩れ、監視していた人と監視されていた人も、人間の本質を信じられるような邂逅を迎えていきます。
映画を見終わった後は、劇作家と大尉の気持ちになってしまい、心が温まる。久しぶりに良い映画を観たという感じがしました。
ここまでは映画に対しての「深い感動」です。
以降は映画周辺にまつわる「絶望」を述べたいと思います。
筆者はブログの最初の書き出しで、「現在の日本は着実に全体主義化しつつある」と述べました。全体主義の特徴としては3つあります。
②公然と行われる(警察権力等の)暴力
③粛清→「厳しく取り締まって、不純・不正なものを除き、整え清めること」または「不正者・反対者などを厳しく取り締まること」
③の粛清などはここ2年ほど、コロナなどにかこつけ日本政府が様々に行っているのが散見されます。
旧東ドイツを舞台にした映画「善き人のためのソナタ」では上記の3つの条件が全て描かれていた訳ではありませんが、割と当てはまっていたように思います。
要するに政府が国民の「言論、出版、表現の自由」を監視し、強制的に規制をしているからです。
映画の中では国民を監視する側の秘密警察、シュタージ(国家保安省)に所属するヴィースラーが改心する姿が感動的に描かれています。
ベルリンの壁が崩壊して以来、ドイツは統一されましたが、現在ドイツでは東ドイツにあったシュタージが「シュタージ博物館」として一般公開されています。
そして日本のある保守系言論人がドイツを訪れた時のことです。その言論人は映画「善き人のためのソナタ」を鑑賞しており、シュタージ博物館に行ってみたのです。
そして博物館の館員に映画のことを話すと、その館員は「東ドイツ時代に、映画の中のヴィースラーのように盗聴監視の途中で改心するような人間は1人もいなかった!」と断言し、けんもほろろだったそうです。
つまり国家の命令とあれば、反体制的な国民に対して盗聴、監視活動などを平気で粛々とこなす人間ばかりだったということです。
もちろん心の中では嫌々仕方なくやっている人もいたとは思います。
ですが、国が一旦国民の自由を力で押さえこむ体制を作ってしまった場合は、それに抵抗するのは一個人では至難の技です。
ですから、そうならないように国民の側としては常に政治に関心を持つべきだと思うのです。
映画「善き人のためのソナタ」は映画としては素晴らしい出来栄えですが、ヴィースラーのような人が出てくることを期待は出来ないと思います。
なのでこの映画は、監視社会の中での美しい人間ドラマとして観るべきではなく、有り得そうであり得ないファンタジー映画として観るべきなのです。
そしてそのような見方しか出来ない現実こそがこの映画の「絶望」部分なのです。
その「絶望」が将来の日本に訪れないように、1人ひとりが踏ん張るしか方法がないのが、現在の日本の状況だと筆者は考えています。