「(人は)自分たちが勝手に実像だと信じているにすぎないものを、ことごとく(実際の)環境そのものであるかのように扱っていることには気づいていない」(世論・上巻より)
今回の記事では、「ニュースと真実とは同一物ではない」ことを、リップマンの「世論」から参照し、確認してまとめてみたい。以下の文章の90%くらいは「世論」の上下巻から抜粋したものであり、読みやすいように部分的に筆者の手を加えている。
*【ステレオタイプとは、多くの人に浸透している先入観、思い込み、認識、固定観念、レッテル、偏見、差別などの類型化された観念を指す用語である。(Wikipediaより)】
☆ニュースの本質
「真の環境はあまりに大きく、あまりに複雑で、あまりに移ろいやすい」ために、それを見た記者は、それが真実であることを立証できない。
記者は、客観的な検査方法が存在しない限り、自分自身の意見が、自身のステレオタイプ、規範、関心の強弱によって成り立っていることを認める。ジャーナリストは自分が主観的なレンズを通して世の中を見ていることを知っている。つまり情報の取捨選択の判断とその理由は「ジャーナリストの自由裁量に委ねられる」
*リップマンは疑問を投げかける。そもそも新聞社は世の中で起きた出来事を、正確に記録できるだろうか、と。
記録されづらいものとして…
「人物批評、真心、動機、意志、大衆感情、差別、不正、自由、保守主義、帝国主義、栄誉、正義等」
全てこうしたもののデータは、せいぜいが急に思いついたように記録されたものに過ぎない。検閲制度、または秘密保持のせいでデータが隠されているかもしれない。記録が大切だと考える人がいない為に、あるいは面倒だから、あるいは客観的な評価システムを誰もまだ開発していないから、データは存在しないのかもしれない。
そして、「記者の主観が混じったかもしれない報告」と「正確に記録されていない社会事象」を編集長は机の上で処理しなければならない。
編集長には大変な重圧がかかる。「競争紙に負けないように読者の機嫌をむすばなければならない」為に、読者の注意を惹きつけ、読者の内なる感情を呼び覚まし、読むであろう紙面に個人的な一体感を覚えるような見出しを考えなければならない。
「名誉毀損のトラブルも避けなければらならない」「締め切り時間を気にしながら、報告を素早く読み、取捨選択をし、定型サイズの紙面に収めなければならない」
そこで編集長が取る無難な仕事としては、企画生産されたような記事の作成であり、そうすれば時間と労力の節約になるばかりでなく、失敗を免れる保証もある程度得られるからである。
しかし編集作業は、このような負の感情を伴うようなことばかりではない。編集長や新聞社のオーナーは、どんな事実を、どんな印象を新聞に載せさせるか、その選択はきわめて自由であるからだ。
「ビッグニュースの場合、そのほとんどの問題をめぐる諸事実は、単純でもなく明白でもない。どれを選択するか、どんな意見がつけられるかでどうにでもなる。となれば誰しもが諸事実の中から自分自身が選択したものを新聞の印刷に回したいと願うのは当然である。編集長(または新聞社のオーナー)はそれをする。」
☆「読者に届けられる新聞は、ひと通りの選択が全て終わったその結果である」それにも関わらず読者は日々のニュースから真実を見出すことができるのだろうか?
(新聞紙面では)人々が自分では虚構か現実かの区別のつけようのない問題が扱われている。真実かどうかを基準にして判断することはできない。だが、このようなニュースでも自分のステレオタイプに合致すれば、人々はひるまない。彼らはニュースが自分の興味を引く限り読み続けるであろう。
読者は「ニュースを読む時」「ニュースから真実を掴もうとする時」数えきれないほどの障害に直面する。
自分が置かれた社会的階級の違いにより、得られる情報は格段に違う。地方のアルバイトよりは、東京にある一流大企業の幹部の方が、町内会よりは政府の中枢にいる政治家の方が情報の質も良いのに決まっている。
また、一個人の小さいレベルまで引き下げれば、精神疲労や、内的に注意力を妨げるもの、あるいは外的に気分を散らすものが(情報に対して)連想反応の質を鈍くする。
また人々の公共の事柄に対する意見は、あらゆる種類のコンプレックスや、新経済的利害、個人的憎悪、人種的偏見、階級的感情などと断続的に接触を持っている事は明らかである。そうしたコンプレックスが我々の読書、思考、会話、行動を多種多様に歪めるのである。
また日頃から活字を読むことに馴染んでいない人たち、大変に神経質な人たち、栄養不良の人たち、欲求不満の人たちからなる大衆の数は我々が想像しているよりもはるかに大きい。
従って幅広い大衆への訴えは、精神的には子供で野蛮な人たち、生活が順調でなく困窮している人たち、生命力の使い尽くされた人たち、ヒキコモっているばかりの人達、論争中の問題に含まれている様子を1つも経験の中に取り込んだことのない人たちの間を経めぐる。
公共の事柄に対する意見の流れはこうした人たちのところでせき止められて、誤解と言う小さな渦を作り、そこで偏見とこじつけの類推によって変色させられるのである。
このように我々の世論が問題とする環境はさまざまに屈折させられている。
情報の送り手の所では検閲と機密性を理由に、また受け手の所では物理的社会的障壁によって、あるいは不注意によって、言語の貧しさよって、注意力が散漫なことによって、虫の居所によって、疲労や涙、暴力、単調さによって、環境は屈折させられている。
そしてそうした環境への接近を遮る様々な制限は、事実そのものの曖昧さや複雑さと相まって、明晰な正しい認識を妨げ、実際に即した観念の代わりに判断を誤らせやすい虚構を充当し、意図的に誤った認識に導こうとしている者たちに対する適切なチェックを(必要であるにも関わらず)我々にさせないのである。
とはいえ、そういう過程でできた意見の集合体も世間の人達のあいだでは「世論」として立派に扱われる。
つまり、一つの報告(ニュースなど)は、知ろうとするものと、知られるものとの合作である。記者、編集長、新聞社のオーナーはその過程で必ず選択するし、大抵は創作もする。読者が見る事実は、読者の置かれている場所、読者が物を見る目の習慣に左右される。
☆「不完全なニュース」「様々な制約と障害があるにも関わらず、それらを意識せずにニュースを読む読者」…その結果、読者は新たなステレオタイプを頭の中に作る。
我々は、「この人間」、「あの日没」というように個々別々にものを見ることをしない。例えば美術部に所属している学生は穏やかな人、体育会系の部活に所属している人は荒っぽい人という先入観を持ちやすい。現実には美術部員で荒っぽい人もいれば、体育会系で穏やかな人もいる。
我々は1人の人間を調査してから悪い人だと判断するわけではない。我々はその人を見る時すでに悪人として見ているのである。
このような事情には経済性という問題がからんでいる。あらゆる物事を類型や一般性としてでなく、新鮮な目で細部まで見ようとすれば非常に骨が折れる。まして諸事に忙殺されていれば実際問題として論外である。
つまり、人はこの世界を細かく、正確に捉えることが難しい為に、世界像を自分の中で持っているステレオタイプで鋳型にはめる。
これにより時間を節約することもできれば、精神的な安定を得ることもできる。
結局のところ、一切は悪いものばかりの体系、さもなければ善いものばかりの体系の中に織り込まれてしまうのが普通である。
我々は、より多くというより「最も多く」、より少なくというより「最も少なく」、という表現を好み、むしろ、多分、もし、あるいは、しかし、大体、充分ではないが、ほとんど、一時的に、部分的に、といった語を嫌う。
真の空間、真の時間、真の数、真の関係、真の重さは失われている。出来事はその展望も背景も面も削り取られて、ステレオタイプの中で凍結させられている。
「我々1人ひとりは、あらゆる公共の事柄について有効な意見を持っていなければいけない」ということを、リップマンは「できるはずも機能するはずもないフィクション」と断言する。
であるにも関わらず、人々は自分では労力を惜しみ、安い新聞紙代でこの奇跡が成し遂げられることを期待している。
新聞は1日24時間のうちたった30分だけ読者に働きかけるだけで、公的機関の弛緩を正すべき「世論」と呼ばれる神秘の力を生み出すように要求される。新聞もしばしば誤ってそんなことができるかのようなふりをする。
別の表現をすれば新聞は直接民主主義の1つの機関とみなされるようになっていると言うことになる。
発議権、投票権、解任権にしばしばつながる機能を、非常に大規模に毎日要求される機関である。「世論」と呼ばれるこの法廷は、日夜の別なく開廷され、四六時中あらゆる事件のために権威ある言渡しをしなければならない。
この法廷を機能させることは難しい。ニュースの本質を思いめぐらして見るならばそうした法廷があり得るなど考えられもしない。既に見てきたようにニュースと言うものは事件がいかに正確に記録されているか否かによって正確性が左右されるからである。
以上述べてきたことを考慮するならば、「ニュースと真実は同一物ではない」ということがわかることと思う。
結論としては、「(ニュースなどの)情報の原理を無視するとき、人は自分の内にこもり、内側にあるものしか目につかない。そうした人間は自分の知識を増やさずに、自分の偏見を育むのである」
とはいえ、リップマンはネガティブなことばかり述べている一方で、実は「真実に近づく方法」も述べている。次回のブログではその方法を「ロシア・ウクライナ紛争の行方と日本の取るべき選択」と合わせて書く予定である。

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