前回の記事では「台湾のみの単独侵攻」が合理的でない理由を解説したが、今回は「尖閣のみの単独侵攻」の成否を考察する。
その前に尖閣諸島が日本の領土であるということを、いしゐのぞむ長崎純心大学准教授の論考を参考にして簡単に触れておきたい。
明国の使節、陳侃(ちんかん)が1534年に琉球に渡航した際に書いた、現存最古の使録を参照する。
当時、陳侃以前から琉球船はほぼ毎年福建に渡航していたが、逆に、福建側の使節船が琉球に渡航するのは平均30年に一度ほどに過ぎない。
陳侃は釣魚島(尖閣)航路に出航する前、福州で準備をしていた。その時、琉球国からの貿易船が入港した。陳侃は三回喜んでその入港を書き記した。
以下は陳侃の言葉。
「福建人は航路を知らないので、どうやって渡航しようかと憂いていたところ、琉球から公認貿易船が来た。我々は、詳しい琉球情報を提供してもらえると喜んだ」
「琉球の太子から迎えの船が来たので(中略)その船を先導として渡航できる。そこで我々はさらに喜んだ」
「先導の船に頼らずとも、琉球から派遣された針路役、及び水夫30名が同船してくれる。我々はもう一度喜んだ」
つまり福州市から琉球を目指して東に進むと、まずは右に台湾が見え、次にしばらくして左側に魚釣島(尖閣)が見える。またしばらく進むと右に宮古島が見えて、さらに進むと左に琉球が見えるのである。
当時の明国人は台湾の位置はわかっていたが、そこから先の尖閣、宮古島の位置を明確には分からなかった為に、琉球人が自分たちの船に乗って琉球までのルートを教えてくれることを喜んだのである。
これにより釣魚列島(尖閣諸島)を琉球人がすでに発見していたことが推測できるし、陳侃の発見でないことはほぼ確定的である。
陳侃以後の使録でも、琉球人が針路役だったことは繰り返し記述される。往路で台湾の西側から早くも琉球人の針路案内に任せたことを示す史料(李鼎元「使琉球記」など)もある。
要するに、中国の最も古い文献によれば当時の中国が釣魚島(尖閣)の正確な位置を把握してないことは明白であり、ということは釣魚島は元々中国の島だったなどと主張することはおかしなことなのである。
逆に琉球側からすれば、毎年のように福建に渡航しており、その際には当然釣魚島(尖閣)も目印にしていたことだろう。
このように琉球文化圏内と呼ぶべき釣魚列島であれば、明治に日本が琉球を併合してから日本の領土となったのは文化的に極めて自然な話しなのである。
次に、尖閣(釣魚島)が日本の領土であることを踏まえつつ、中国による「尖閣のみの単独侵攻」を考察する。以下は日本安全保障戦略研究所による「日米台連携メカニズムの構築」から抜粋し、要約したものである。
尖閣のみの単独侵攻
尖閣単独占領は、所要戦力が最も少なく、現在の戦力バランス、軍事態勢上いつでも実行可能とみられることから、漁民に偽装した海上民兵、海警などを主用し、日本側の防衛出動下令を出来るだけ遅らせつつ、奇襲的に作戦が実行され数日以内の短期占領を目指すとみられる。
しかし、その後日米による尖閣上陸部隊に対する海上封鎖と遠距離火力による反撃に会い、尖閣諸島の占領を維持するのは容易ではない。
中国が尖閣諸島を占拠した場合に考えられることとしては、日本の台湾支援政策は一挙に進み、対台湾武器援助、日本版台湾関係法の制定、さらには日中国交断絶と日台国交回復など、米台のみならず日台間の防衛協力が加速されるであろう。
また同時に台湾の台中警戒心を高め、台湾の軍事力増強、米国からの武器支援による台湾の防衛力強化がさらに進み、結果として中国と台湾の軍事バランスも中国側の優勢度が低くくなるであろう。
米国内では、米国議会及び国民の反発を招き、米国の軍事力の増強と米国による日台に対する防衛力増強支援を促進させることになろう。
さらに、東南アジア諸国やインド、オーストラリア、欧州各国の反発も強まり、世界的な対中包囲網が軍事・非軍事両面で強まり、中国の国際的孤立が決定的となろう。
以上の、日米の対応による軍事的リスク、日米台の反発による政治的リスクと防衛力増強の誘発、外交的孤立のリスクなどを総合的に考慮すれば、中国による尖閣諸島への侵略と占領は軍事的にはいつでも可能としても、安易に実行される可能性は低いとみられる。
③に続く

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